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10月に新しいトップレベルドメイン「.asia」の設置が承認されました。それを受け、12月6日に、ブラジル・サンパウロで開催中のICANN MeetingでDotAsia Organisation LimitedとICANNの間で、契約書の調印が行われました。

晴れがましいです。申請から既に3年、構想はそれ以前からスタートしており、現在、DotAsiaの理事でもあるChe-Hoo Chengさん(FLAG Telecom/APNIC)をはじめとする、Asia Pacificのインターネットコミュニティ関係者の努力で、やっとスタートラインに立つことができました。

私もDotAsia Organisationの理事として、「.ASIA」の成功に向けて、貢献をしていきたいと思っています。


調印終了後の記念写真。中央がDotAsia Organisation CEOのEdmon Chung。Edmonの右はICANN President/CEOのPaul Twomey、Edmonの左はICANN ChairのVinton Cerf。

調印式の様子は、DotAsia Organisation VPのChing Chiaoさん(記念写真の一番左)のサイトでどうぞ。

中正紀念堂

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左から、國家戲劇院、大中至正門、國家音樂廳

44回目の衆議院総選挙が終わりました。

初めて小選挙区制の威力が発揮された選挙のように思います。

選挙区と比例代表が約3:2という、中選挙区時代の名残を少し残す今の制度でも、40%の支持で70%くらいの議席を押さえることができるわけです。30%の支持で20%くらい。政党全体で7〜8%の得票を集めても、1%〜2%くらいしか議席は取れません。

「平家物語」じゃないですが、いつまでも同じ状態が続くことはないわけで、政権を担う政党には今回の結果を受けて、一層しっかりと仕事をしてほしいです。ちゃんと仕事をしないと次の選挙で大変なことになるはずです。今の選挙制度は、今回、野党第一党が勢力を大きく減らしたように、ちょっとした変化で議席が半分になりますから。

僕は、近隣諸国からの信頼なくてして日本の未来はないと思ってるので、今の危機的な状況のまずさには苛立ちを覚えます。政権与党には、この分野で、気持ちを入れ替えて、本当にしっかりと責任のある仕事をしてほしいと切に願います。

京都には高層ビルがない。一番目立つのは、京都タワーと、すっごい豪華な京都駅の駅舎。
景観を守るため。街が世界遺産ですから。

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清水寺から、京都駅方面を臨む。

鮫島敬治さん(元日本経済新聞社専務、元北京特派員)の訃報が12月27日の新聞各紙に載っていました。まったく面識はありませんが、ここのところいま一つうまくいっていない、中国、韓国、そして台湾、かなり難しい北朝鮮などと日本の関係を考える上で、鮫島さんの歩んだ道はいろいろと示唆的ところがあるので、紹介したいと思います。

1945年からの連合国による占領期が終わった後も、日本政府は国民党の中華民国を中国を代表する政府としてきたこともあり、日本人の大陸への人の往来は極めて限られた範囲でしか行われていませんでした。現在とは違い、外国の情報に人々が触れるにあたり、外国に常駐する新聞記者の果たす役割はとても大きく、日本のメディア各社は中国大陸に記者を常駐させ、取材を行い、その様子を読者に伝えたいと強く考えていました。

戦後最初に日本の記者が中国を現地取材したのは1954年9月です。その後は単発で記者の中国入国が認められることもありましたが、非常に大きな制約のもとでのものでした。(現在の多くの日本のメディアの北朝鮮取材をイメージすると理解しやすい)

フランスが中華民国ではなく、中華人民共和国を承認した1964年に一気に事態が動きます。自民党の代議士、松村謙三は、1964年4月19日に北京で廖承志中日友好協会会長との間で「日中双方の新聞記者の交換に関するメモ」を結び、日本と中国の間で記者交換を行う約束をしてきます。この結果、9月29日に実際に記者交換が実現しました。日本側からは、常駐9名(毎日、読売、産経、日経、西日本、共同、NHK、東京放送、朝日)、短期5名(中日、北海道、河北、南日本、時事=11月15日帰国)の14名が北京入りを果たし、中国側からは7名(新華社、人民日報、公明日報、大公報、北京日報、文准報、中国新聞)が来日したのです。

このような経緯を経て、鮫島さんは日経の記者として、北京に駐在したのでした。ちょうどこの頃、文化大革命が突然盛んになり、ちょっとした騒乱状態になったわけです。中国当局はそれまで以上に外国人記者団全体に対し厳しい態度を取り始めたのでした。ソ連の記者の追放やロイター通信記者の逮捕などが続き、非常に居づらい状況となったため、自発的な撤退も相次ぎ、北京の外国人記者は激減します。日本の各社も『朝日』を除き、「反中国的である」として順次追放・退去、あるいは一時帰国後の再入国拒否などで北京での取材活動が行えなくなってしまったのです。

その中で鮫島さんは、1968年6月7日にスパイ容疑で中国当局に拘束され、1969年12月17日に釈放され帰国するまで、自由を制限される状態にありました。長期に渡って当局の拘束を受けた日本人記者は鮫島さんだけです。

日本のメディア全体でこの勾留に抗議をするということはありませんでした。新聞社と言うのは私企業ですから部数を伸ばすのがとても重要なので、揃って行動するのが難しい場合もあるわけです。何と言っても、独占状態だったわけです、北京からのレポートに関しては『朝日』が。国交正常化に絡むいろいろな政治的思惑もあったと推測されます。当然、いろいろな批判も沸き起こったわけです。関心のある方は、下記の参考文献を参照ください。

「何十年も前の話でしょ」といっても、台湾の前の総統の来日を巡る中国の対応とか、北朝鮮の対応とか、そんなに変わってないようにも思えたりします、僕には。

参考文献

    鮫島敬治『8億の友人たち 日中国交回復への道』、日本経済新聞社、1971年
    秋岡家栄『北京特派員』、朝日新聞社、1973年
    石川昌『北京特派員の眼』、亜紀書房、1977年
    吉田実『日中報道 回想の35年』、潮出版社、1998年

    三好修・衛藤瀋吉『中国報道の偏向を衝く』、日新報道出版部、1972年

    田川誠一『日中交渉秘録』、毎日新聞社、1973年
    藤山愛一郎『政治わが道 藤山愛一郎回想録』、朝日新聞社、1976年

    『朝日新聞社史 昭和戦後編』、朝日新聞社、1994年
    『日本新聞協会30年史』、日本新聞協会、1976年
    『日本新聞協会40年史』、日本新聞協会、1986年
    『日本新聞協会50年史』、日本新聞協会、1996年

僕、緒方竹虎という人にかなり興味を持ってまして、以前いろいろ調べたことがあります。今日は、簡単に紹介をしてみたいと思います。

「誰それ?」って人も多いでしょうね、緒方貞子さん(JICA理事長、上智大学名誉教授、第8代国連難民高等弁務官)の義理のお父さんという説明が一番わかりやすいかもしれません。

緒方竹虎が、もし急逝しなかったら、保守合同で誕生した自由民主党の最初の総裁になっただろうし、つまりこれは、鳩山一郎政権ではなく、緒方政権が誕生したということです。その後の日本も随分違った可能性がありますね。この戦後の保守政界の大物という顔が一つ。

もう一つは、戦前の『朝日』の主筆としての言論人の顔。二二六の時、「反乱軍」が『朝日』にやってきて、「緒方出せ!」とやるわけですが、緒方自ら東京朝日のロビーに出てきて「追い返した」のは有名です(篠田正浩監督の「スパイ・ゾルゲ」にもこの場面が出てきます)。当時、「『問答無用』の精神」(『文藝春秋』1934年12月号)という論文を書いたことに代表されるように、陸軍や右翼に対して体を張って対抗していたわけです。

陸軍の専横を快く思わない言論人・緒方は海軍に近づきます。海軍で緒方が親交を持った代表的人物が米内光政です。緒方は1955年に出版した『一軍人の生涯 回想の米内光政』で次のように述べています。

    「国家総動員法を手始めに、幾多の非常時立法が次つぎに制定され、新聞の言論が完全に封鎖されて以後、筆者は米内、山本の海軍により、こいねがわくば戦争を未然に防いで欲しい念願から、足繁く米内の門を叩くに至った」

とはいえ、緒方も近衛文麿に期待した他の多くの人と同じように、結果的には翼賛体制に組み込まれてしまい、戦争遂行体制の中で要職を務めることとなり、その結果、戦後は公職追放にもなっています。


緒方竹虎をもっと知るための主な参考文献

    緒方竹虎『言論逼塞時代の回想』、『中央公論』1952年1月号
    緒方竹虎『一軍人の生涯 回想の米内光政』、文藝春秋新社、1955年
    桜井清編『回想の緒方竹虎 -附・遺稿集-』、東京と福岡社、1956年
    緒方竹虎『一軍人の生涯 提督・米内光政』、光和堂、1983年

    緒方竹虎伝記刊行会編『緒方竹虎』、朝日新聞社、1963年
    高宮太平『人間緒方竹虎』、原書房、1979年
    三好徹『評伝緒方竹虎 激動の昭和を生きた保守政治家』、岩波書店、1988年
    栗田直樹『緒方竹虎 情報組織の主宰者』、吉川弘文館、1996年

    朝日新聞社史編集室編『朝日新聞の九十年』、朝日新聞社、1969年
    朝日新聞百年史編集委員会編『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』、朝日新聞社、1991年
    五十嵐智友『歴史の瞬間とジャーナリスト達』、朝日新聞社、1999年

George W. Bush が再選。。うーん。John Kerryは迫力不足だったかもね。大統領っぽさという意味で。

選挙

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11/2が投票日。来年1月20日以降、合衆国の大統領を誰がやるの?という話。結構気になってます。

マイケル・ムーアじゃないけど「前回の選挙、アル・ゴアが勝ったんじゃないの」という気持ちが僕は結構強いです、正直なところ。今回は混乱なしでお願いします。

現代韓国朝鮮学会の第5回定例研究会に行ってきました。

テーマ:北朝鮮研究の現状と課題−対象、方法、「現代的」意義−
 問題提起:室岡鉄夫(防衛研究所)
 討論:後藤富士男(京都産業大学)
 司会:平岩俊司(静岡県立大学)

質疑応答に加え、諸先生方の踏み込んだ討議もあり、なかなか面白い会でした。

現在、台湾では車は右側通行です。1996年に最初の路線が開業した台北のMRT(Mass Rapid Transit)も右側通行です。進行方向右側のホームに必ず列車が入ってきます。

ですが、「国鉄」にあたる台湾鉄道は必ずしも右側通行ではありません。基本的に左側通行です。日本と同じですね。台湾の鉄道の大部分は台湾が日本だった時代(1895-1945)に敷かれたものなので、このようになってるわけです。鉄道の場合、車のように「明日から走る方向を変えましょう」と単純にいかないんでしょう、恐らく。

韓国でも似た状況があります。ソウルの地下鉄は国鉄と乗り入れていない路線は列車が右側通行なのですが、国鉄と乗り入れている路線は左側通行で走っています。

こういうところから、歴史を感じることもできるわけです。

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台湾鉄道 瑞芳駅

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