鮫島敬治さん(元日本経済新聞社専務、元北京特派員)の訃報が12月27日の新聞各紙に載っていました。まったく面識はありませんが、ここのところいま一つうまくいっていない、中国、韓国、そして台湾、かなり難しい北朝鮮などと日本の関係を考える上で、鮫島さんの歩んだ道はいろいろと示唆的ところがあるので、紹介したいと思います。
1945年からの連合国による占領期が終わった後も、日本政府は国民党の中華民国を中国を代表する政府としてきたこともあり、日本人の大陸への人の往来は極めて限られた範囲でしか行われていませんでした。現在とは違い、外国の情報に人々が触れるにあたり、外国に常駐する新聞記者の果たす役割はとても大きく、日本のメディア各社は中国大陸に記者を常駐させ、取材を行い、その様子を読者に伝えたいと強く考えていました。
戦後最初に日本の記者が中国を現地取材したのは1954年9月です。その後は単発で記者の中国入国が認められることもありましたが、非常に大きな制約のもとでのものでした。(現在の多くの日本のメディアの北朝鮮取材をイメージすると理解しやすい)
フランスが中華民国ではなく、中華人民共和国を承認した1964年に一気に事態が動きます。自民党の代議士、松村謙三は、1964年4月19日に北京で廖承志中日友好協会会長との間で「日中双方の新聞記者の交換に関するメモ」を結び、日本と中国の間で記者交換を行う約束をしてきます。この結果、9月29日に実際に記者交換が実現しました。日本側からは、常駐9名(毎日、読売、産経、日経、西日本、共同、NHK、東京放送、朝日)、短期5名(中日、北海道、河北、南日本、時事=11月15日帰国)の14名が北京入りを果たし、中国側からは7名(新華社、人民日報、公明日報、大公報、北京日報、文准報、中国新聞)が来日したのです。
このような経緯を経て、鮫島さんは日経の記者として、北京に駐在したのでした。ちょうどこの頃、文化大革命が突然盛んになり、ちょっとした騒乱状態になったわけです。中国当局はそれまで以上に外国人記者団全体に対し厳しい態度を取り始めたのでした。ソ連の記者の追放やロイター通信記者の逮捕などが続き、非常に居づらい状況となったため、自発的な撤退も相次ぎ、北京の外国人記者は激減します。日本の各社も『朝日』を除き、「反中国的である」として順次追放・退去、あるいは一時帰国後の再入国拒否などで北京での取材活動が行えなくなってしまったのです。
その中で鮫島さんは、1968年6月7日にスパイ容疑で中国当局に拘束され、1969年12月17日に釈放され帰国するまで、自由を制限される状態にありました。長期に渡って当局の拘束を受けた日本人記者は鮫島さんだけです。
日本のメディア全体でこの勾留に抗議をするということはありませんでした。新聞社と言うのは私企業ですから部数を伸ばすのがとても重要なので、揃って行動するのが難しい場合もあるわけです。何と言っても、独占状態だったわけです、北京からのレポートに関しては『朝日』が。国交正常化に絡むいろいろな政治的思惑もあったと推測されます。当然、いろいろな批判も沸き起こったわけです。関心のある方は、下記の参考文献を参照ください。
「何十年も前の話でしょ」といっても、台湾の前の総統の来日を巡る中国の対応とか、北朝鮮の対応とか、そんなに変わってないようにも思えたりします、僕には。
参考文献
鮫島敬治『8億の友人たち 日中国交回復への道』、日本経済新聞社、1971年
秋岡家栄『北京特派員』、朝日新聞社、1973年
石川昌『北京特派員の眼』、亜紀書房、1977年
吉田実『日中報道 回想の35年』、潮出版社、1998年
三好修・衛藤瀋吉『中国報道の偏向を衝く』、日新報道出版部、1972年
田川誠一『日中交渉秘録』、毎日新聞社、1973年
藤山愛一郎『政治わが道 藤山愛一郎回想録』、朝日新聞社、1976年
『朝日新聞社史 昭和戦後編』、朝日新聞社、1994年
『日本新聞協会30年史』、日本新聞協会、1976年
『日本新聞協会40年史』、日本新聞協会、1986年
『日本新聞協会50年史』、日本新聞協会、1996年