2005年1月アーカイブ

Absent Lovers / King Crimson

1/22頃から急にKing Crimsonばかり聴いています。1995年に6人編成のKing Crimsonが東京に来た時には、厚生年金会館と中野サンプラザの2ヶ所に観に行くという熱の入れようでしたが、ここ4〜5年は、あまり聴いていませんでした。

「Neal and Jack and Me」という1984年のTokyo公演と1982年のFrejus公演をカップリングしたDVDを買ったのが理由です。両方とも映像作品として既に世に出ています。僕は1984年の東京公演を収めた"Three of A Perfect Pair - Live in Japan 1984"はLDで持っていて、10年くらい前に繰り返し見ていました。でも、久々に見るといろいろと発見がありますね。とっても音楽的で改めて感動しています。

King Crimsonというバンドは1969年に1stアルバムを出した後、メンバーがどんどん変わっていますし、休止期間も何度かありますので、King Crimsonのリーダ(という表現が適切かどうかは良くわからないが)であるRobert Frippが「これがKing Crimsonだ」と言えばOKというところがあります。

僕にとってKing Crimsonは、"Disipline"、"Beat "、"Three of A Perfect Pair"の3枚を作った、Robert Fripp、Adrian Belew、Tony Levin、Bill Brufordの4人のラインナップで活動した1981-1984年のバンドというイメージです。

もし今、「なんか面白い音楽ない?」と質問されたら、「"Disipline"を是非聴いてみて」と答えます。それくらい好き。

音楽的に非常に興味深いものがつまっているので僕は全面的に支持していますが、この時期のKing Crimsonの音楽は今でも賛否両論です。多分「プログレ好き」にとっては、「プログレ」っぽくないからこういう評価になっているんだと思います。"Red"や"Larks' Tongues in Aspic"を支持して止まないファンがDisipline Crimsonを嫌いなのはとても良くわかります。

New Waveの洗礼を受けましたって感じの音の第一印象からしてかなり違いますし、リズムも「ワールドミュージック」を先取りした感じで多彩な展開を見せますので、ヨーロッパのClassical Musicの影響を感じされる部分は薄く、British ProgressiveRockの「様式美」とはかなり違うイメージです。一つ一つの曲も4分くらいですし。

#あ、念のため書いておきますが、"In Court of the Crimson King"、"Larks' Tongues in Aspic"、"Red"も僕は大好きです。

さて、前置きがかなり長いですが、ライブ盤"Absent Lovers"は1984年にモントリオールで行われた第4期King Crimson(a.k.a "Disipline Crimson")の最終公演を収めた2枚組です。18曲収録されており、"Larks' Tnougues in Aspic Part2"以外は、"Disiplene"、"Beat"、"Three of the Perfect Pair "からの選曲で、この時期のCrimsonのベスト盤という聴き方が出来ます。

Brufordが作り出すリズムは素晴らしいし、Levinのセンスの良いベースとStickという可能性を秘めた楽器が繰り出す新しい音、FrippとBelewのギターは、ギターシンセの使い方を含め、僕にとっては教則本のようなところがあり、聴き飽きることはまったくありません。

是非、聴いてみてください。

玉田、松田、Alex、玉田のゴールででカザフスタンを下し、2005年、好スタートをきった日本代表。
2/9に向け、いい感じです。チームの雰囲気が良さそうなのが伝わって来ました。
阿部、大黒が初キャップ。坪井が久々に復帰。

しかし、カザフスタンはコンディションがかなり良くなかったですね。

2001年の『アジアからのネット革命』以来となる会津さんの著書。

準備段階から関わってきているWSIS(World Summit on the Information Society)、設立前の1996年以来関わってきたICANN(Internet Corporation For Assigned Names and Numbers)、そして2000年の沖縄サミット後に活動したドットフォース(Digital Opportunity Taskforce)、これらの活動で自身が経験したことがまとまった形で記述されています。

一貫して自分を「市民社会」「利用者」の立場におき、インターネットの可能性を肯定的に捉え、行動を続けてきた関与の記録です。その立場ゆえ、その設立時の経緯、2000年のオンライン理事選挙の実施方法、その後に「選挙」をいう制度の廃止を決めた、ICANNに対する批判的な記述が続きます。とはいえ、これは、会津さんの立場から見た「事実」の報告に過ぎません。本書の優れている点は単純にそのような「報告」を行うだけに留まることなく、それらの事象の背景となる考え方の整理を客観的に行っている点です。今後の人材育成の重要性も説いているところも特徴と言え、インターネットを軸とする「情報化社会」を理解する上で、非常に重要な一冊です。

インターネットガバナンスを考える上で、会津さんはインターネットが持つ「自律・分散・協調」という理念と以下の4つの思想的主張・立場があることを押さえるべきと記しています。

  1. 当初よりインターネットの開発にあたり、その発展に貢献してきた「インターネット・コミュニティ」と呼ばれるエンジニア中心の人々
  2. 営利目的の企業活動を推進するビジネス・コミュニティの人々
  3. インターネット上での個人の権利と自由を最大限保証すべきだと主張するNPO、NGO、市民団体などに近い人々
  4. 国家主権を強調する途上国の政府関係者

    会津泉『インターネットガバナンス 理念と現実』 、NTT出版、2004年

関脇栃東、11番勝って、2度目の返り咲き。良かったー。

しかし、正直、もの凄くつまらない場所でしたね。横綱が全勝優勝を飾っているのに、この停滞感は哀しいものがありますね。魁皇と若の里の昇進話は振り出しに戻り、千代大海がカド番脱出なるか?が優勝争い以上の話題となった終盤。

この感じだと、白鵬の夏場所後の大関昇進は十分ありそうですね。

おー。知らずに会場まで行ってしまった。

ロジャーの足のケガの悪化のため。来年以降かなー、振り替え公演は。

青色LED訴訟

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中村修二カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授が1月13日に行った記者会見は非常に醜かったですね。彼が憤慨しているのは良くわかりましたが、あれでは、自分の言い分が通らなくて飲み屋で愚痴・文句を言い続けるおじさんと大差ありません。なぜ自分の評判を落とすような言動をするのでしょうかね。

「なぜ俺にこれしか払わないんだ」と駄々をこねているように僕は受け取りました。世の中がこれだけ注目したのは「企業に勤める研究者の挙げた成果をどのように評価し、その対価をどのように支払うべきなのか、どのように遇するべきなのか」という課題に対する事例としてであって、中村教授個人が日亜化学から何円得ることができるかではないはずです。それなのに「600億円が6億円になるのはおかしい」などと、自分が超大金持ちになるチャンスを裁判所のせいで失ったかのような発言が出てしまうのには驚きです。

もし中村教授がビル・ゲイツになりたいのなら大学教授をさっさとやめて社長になればよいのです。大金持ちになるのは新しいものを世に送り出すだけでなく経営者としてのセンスも必要です。ライブドアの堀江社長は言いました。「億の単位の金が欲しければ自分で起業するしかない」と。

日亜化学の在職中や裁判での不誠実な対応をなじるならともかく「理系を目指す人にはぜひ、実力が収入に反映される米国に来るよう勧めたい」とはわけがわかりません。

中村教授が、前職の日亜化学に在職中に開発に成功した青色発光ダイオードの発明対価の支払いを求めて起こしたのが今回の訴訟です。概要は弁護団による事件の概要で簡潔に把握できます。裁判では次の2点、(1) 青色発光ダイオード(青色LED)の市場価値と(2)開発者に対する正当な報酬とは、が争われました。

控訴審が和解という形に今回なったわけですが、その背景を弁護団は弁護団の見解にまとめています。裁判の社会的意義を強調し、訴訟を起こした目的を達成したというスタンスです。これとは随分違う発言を中村教授はしていると単純になります。

中村教授に対して「凄い発明をした偉い人」というイメージが崩れ去り「凄い発明をした変な人」というイメージを持つ人が増えそうです。

子供・少子化

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2005年の社会のキーワードは「子供」だなと思う機会がここのところとても多いです。

マガジンハウスの隔週誌 (正確には月2回発行)『Brutus』の2/1号は「子供特集 子供をつくろう」。

書き出しは「史上最低の1.29という出生率」。でも、「子供が貴重な存在となった今、彼らを取り巻く環境の質は上がる一方。(中略) 子供と一緒のライフスタイルは、どんどん楽しくなっているのです」と書いてあるのが、Brutusらしい。

「子供と一緒のライフスタイルは楽しい」を追究した特集です。比較的お金のある層を対象としてる雑誌ですので、読者層にあった切り口です。メッセージを言い換えると「パートナーとだけの生活より子供がいる生活の方が楽しい。だから子供をつくろう」。男性誌がこういう切り口で特集を組むのが2005年。

『日経』は新年から1面で、特集「少子に挑む ニッポン大転換」を連載しています。なかなか良い連載だと思います。

必ず最後に「メッセージ」コーナーがあり、意見を発信をしているのが良いですね。解説記事的なものでなく、事例を紹介し、solutionを読者に提示する。メディアの役割だと思います。切り口も多様で、専門を持つ社内ライターを沢山抱える新聞社の強みを活かした作りです。経済紙が新年の大型特集で「少子化」をテーマにするのが2005年。

熱心なファンというわけではない「つもり」ですが、25枚くらいアルバムを持ってます。その矢野顕子の作品の中でも一番良く聴くのがこのライブ盤。このアルバムを一番聴く人って、珍しいかもしれませんが。

1987年のツアーの東京公演を収録。高橋幸宏、小原礼、吉川忠英、窪田晴男、坂本龍一というオールスターバンドの演奏が僕は大好きです。ラストの「また会おね」では、大村憲司も参加して、素晴らしいギターを弾いてくれています。

大村さんのストラトキャスターの音って、僕のギター弾きとしての音作りのお手本です。どうやったら、大村さんのような音が出せるかってのは、かなり熱心に研究してきてます。YMOのワールドツアーでのプレイもそうですけど、あっこちゃんや大貫ター坊の珠玉の名曲での演奏もホントに、音楽を聴く喜びがつまってるって感じで最高です。

鮫島敬治さん(元日本経済新聞社専務、元北京特派員)の訃報が12月27日の新聞各紙に載っていました。まったく面識はありませんが、ここのところいま一つうまくいっていない、中国、韓国、そして台湾、かなり難しい北朝鮮などと日本の関係を考える上で、鮫島さんの歩んだ道はいろいろと示唆的ところがあるので、紹介したいと思います。

1945年からの連合国による占領期が終わった後も、日本政府は国民党の中華民国を中国を代表する政府としてきたこともあり、日本人の大陸への人の往来は極めて限られた範囲でしか行われていませんでした。現在とは違い、外国の情報に人々が触れるにあたり、外国に常駐する新聞記者の果たす役割はとても大きく、日本のメディア各社は中国大陸に記者を常駐させ、取材を行い、その様子を読者に伝えたいと強く考えていました。

戦後最初に日本の記者が中国を現地取材したのは1954年9月です。その後は単発で記者の中国入国が認められることもありましたが、非常に大きな制約のもとでのものでした。(現在の多くの日本のメディアの北朝鮮取材をイメージすると理解しやすい)

フランスが中華民国ではなく、中華人民共和国を承認した1964年に一気に事態が動きます。自民党の代議士、松村謙三は、1964年4月19日に北京で廖承志中日友好協会会長との間で「日中双方の新聞記者の交換に関するメモ」を結び、日本と中国の間で記者交換を行う約束をしてきます。この結果、9月29日に実際に記者交換が実現しました。日本側からは、常駐9名(毎日、読売、産経、日経、西日本、共同、NHK、東京放送、朝日)、短期5名(中日、北海道、河北、南日本、時事=11月15日帰国)の14名が北京入りを果たし、中国側からは7名(新華社、人民日報、公明日報、大公報、北京日報、文准報、中国新聞)が来日したのです。

このような経緯を経て、鮫島さんは日経の記者として、北京に駐在したのでした。ちょうどこの頃、文化大革命が突然盛んになり、ちょっとした騒乱状態になったわけです。中国当局はそれまで以上に外国人記者団全体に対し厳しい態度を取り始めたのでした。ソ連の記者の追放やロイター通信記者の逮捕などが続き、非常に居づらい状況となったため、自発的な撤退も相次ぎ、北京の外国人記者は激減します。日本の各社も『朝日』を除き、「反中国的である」として順次追放・退去、あるいは一時帰国後の再入国拒否などで北京での取材活動が行えなくなってしまったのです。

その中で鮫島さんは、1968年6月7日にスパイ容疑で中国当局に拘束され、1969年12月17日に釈放され帰国するまで、自由を制限される状態にありました。長期に渡って当局の拘束を受けた日本人記者は鮫島さんだけです。

日本のメディア全体でこの勾留に抗議をするということはありませんでした。新聞社と言うのは私企業ですから部数を伸ばすのがとても重要なので、揃って行動するのが難しい場合もあるわけです。何と言っても、独占状態だったわけです、北京からのレポートに関しては『朝日』が。国交正常化に絡むいろいろな政治的思惑もあったと推測されます。当然、いろいろな批判も沸き起こったわけです。関心のある方は、下記の参考文献を参照ください。

「何十年も前の話でしょ」といっても、台湾の前の総統の来日を巡る中国の対応とか、北朝鮮の対応とか、そんなに変わってないようにも思えたりします、僕には。

参考文献

    鮫島敬治『8億の友人たち 日中国交回復への道』、日本経済新聞社、1971年
    秋岡家栄『北京特派員』、朝日新聞社、1973年
    石川昌『北京特派員の眼』、亜紀書房、1977年
    吉田実『日中報道 回想の35年』、潮出版社、1998年

    三好修・衛藤瀋吉『中国報道の偏向を衝く』、日新報道出版部、1972年

    田川誠一『日中交渉秘録』、毎日新聞社、1973年
    藤山愛一郎『政治わが道 藤山愛一郎回想録』、朝日新聞社、1976年

    『朝日新聞社史 昭和戦後編』、朝日新聞社、1994年
    『日本新聞協会30年史』、日本新聞協会、1976年
    『日本新聞協会40年史』、日本新聞協会、1986年
    『日本新聞協会50年史』、日本新聞協会、1996年

僕、緒方竹虎という人にかなり興味を持ってまして、以前いろいろ調べたことがあります。今日は、簡単に紹介をしてみたいと思います。

「誰それ?」って人も多いでしょうね、緒方貞子さん(JICA理事長、上智大学名誉教授、第8代国連難民高等弁務官)の義理のお父さんという説明が一番わかりやすいかもしれません。

緒方竹虎が、もし急逝しなかったら、保守合同で誕生した自由民主党の最初の総裁になっただろうし、つまりこれは、鳩山一郎政権ではなく、緒方政権が誕生したということです。その後の日本も随分違った可能性がありますね。この戦後の保守政界の大物という顔が一つ。

もう一つは、戦前の『朝日』の主筆としての言論人の顔。二二六の時、「反乱軍」が『朝日』にやってきて、「緒方出せ!」とやるわけですが、緒方自ら東京朝日のロビーに出てきて「追い返した」のは有名です(篠田正浩監督の「スパイ・ゾルゲ」にもこの場面が出てきます)。当時、「『問答無用』の精神」(『文藝春秋』1934年12月号)という論文を書いたことに代表されるように、陸軍や右翼に対して体を張って対抗していたわけです。

陸軍の専横を快く思わない言論人・緒方は海軍に近づきます。海軍で緒方が親交を持った代表的人物が米内光政です。緒方は1955年に出版した『一軍人の生涯 回想の米内光政』で次のように述べています。

    「国家総動員法を手始めに、幾多の非常時立法が次つぎに制定され、新聞の言論が完全に封鎖されて以後、筆者は米内、山本の海軍により、こいねがわくば戦争を未然に防いで欲しい念願から、足繁く米内の門を叩くに至った」

とはいえ、緒方も近衛文麿に期待した他の多くの人と同じように、結果的には翼賛体制に組み込まれてしまい、戦争遂行体制の中で要職を務めることとなり、その結果、戦後は公職追放にもなっています。


緒方竹虎をもっと知るための主な参考文献

    緒方竹虎『言論逼塞時代の回想』、『中央公論』1952年1月号
    緒方竹虎『一軍人の生涯 回想の米内光政』、文藝春秋新社、1955年
    桜井清編『回想の緒方竹虎 -附・遺稿集-』、東京と福岡社、1956年
    緒方竹虎『一軍人の生涯 提督・米内光政』、光和堂、1983年

    緒方竹虎伝記刊行会編『緒方竹虎』、朝日新聞社、1963年
    高宮太平『人間緒方竹虎』、原書房、1979年
    三好徹『評伝緒方竹虎 激動の昭和を生きた保守政治家』、岩波書店、1988年
    栗田直樹『緒方竹虎 情報組織の主宰者』、吉川弘文館、1996年

    朝日新聞社史編集室編『朝日新聞の九十年』、朝日新聞社、1969年
    朝日新聞百年史編集委員会編『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』、朝日新聞社、1991年
    五十嵐智友『歴史の瞬間とジャーナリスト達』、朝日新聞社、1999年

NTT出版

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最近、NTT出版の本を良く買ってますね。自分の関心のある分野の著書が続けて出てるからですが。「情報社会」系。
#InterCommunicationは最近買ってないですけど、最初の頃は良く読んでました

あとは岩波書店の本も多い。慶應義塾大学出版会とか東京大学出版会も多い。この2つの大学出版会から出ている国際政治、東アジアの国際関係の本は外せないのが多いので。

東京Verdy1969というチーム名になってから初のタイトル奪取。2004-2005の天皇杯の決勝は、Jubiloを2-1で振り切った、Verdyが優勝!

ナビスコ杯の時「Verdy来るよ」と言っていたので、別に意外感はないです。ナビスコの時は、FC東京との準決勝の延長戦で力つきちゃったけど、今回は決勝まで行って、「勝ちたい」と言う気迫でJubiloに勝ったので、タイトルを取れた感じがします。

若い、スター候補が沢山いるので楽しみ。相馬、小林大悟とかね。これに中堅選手がしっかり絡むって感じです。林と平野がベテランという感じかな。玉乃君も決勝で久々に、ベンチだけど、姿みたし。廣山も巻き返しを期待したい。

でも、三浦アツの姿はなかったですね(テレビでは確認できなかった)。契約は残ってると思うけど、もう退団同然ってことなのか。

アルディレスはS-pulseのナビスコ杯、F Marinosのステージ優勝に続く、タイトル獲得。Jリーグで指揮を取った全チームで一定の結果を出してますね。

Jubiloの山本監督は「策におぼれてる」って感じ。アテネの時もそうだったけど。うーん、どうなんだろう。Championshipの岡田さんみたいな采配とはレベルが違う気がちょっとしました。

恭賀新年

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本年もよろしくお願いいたします。

精進あるのみ。でも、精進することは苦行を重ねることではありません。楽しみながら行うものだと僕は思っています。

hachiman.jpg
徒歩で片道40分、家族と初詣に出かけました。

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